2009年3月、中学校の教師であった妻の教え子から、生まれて数か月しか経っていない雌のセキセイインコの幼鳥を譲り受け、我が家に迎え入れることとなります。家族会議の結果、譲ってくれた女の子の名前が素敵なので、そのまま「あかり」と命名しました。
「あかり」は、生まれつき片方の翼が発育不良で空を飛べませんでしたが、地を歩き、くちばしと足を上手に使って家族の者たちの体をロッククライマーのようによじ登り、肩の上で一休みするのが大好きでした。自然界ではとても生きてはいけないであろう「あかり」でしたが、我が家にやって来て、その名のとおり、家族のみんなを明るく照らし、たくましく生きている姿に不思議と特別な縁を感じたものです。
悲しいことに、「あかり」は、自分の名が付くこととなる今の店に引っ越す2ヶ月前に、7年の短い生涯を閉じました。今は、店の裏のカエデの木の根元で眠っています。「手打ち蕎麦 あかり」という屋号には、ちょうど明かりを求めて人が集うように、たくさんのお客様にご来店いただき、蕎麦の魅力に触れていただきたいという願いが込められています。
中学校時代の生徒を思いやる担任の先生、高校時代の見識豊かな英語の先生、2人の憧れの先生の後を追いかけて、自分で望んだ中学校英語教師という道。苦労は多くても、思ったとおり、やりがいのある仕事でした。日々、持てるエネルギーのほとんどを注ぎ込んで、自分の役割を果たそうとしてきたように思います。
しかし、教員生活の晩年、学校を離れ、東日本大震災の復興ボランティアに参加させてもらったり、世の中のいろいろな立場の人たちとの出会いを重ねたりしていくうちに、エネルギーや時間の使い方はこのままでいいのかと疑問に思うようになり、人生の終盤は家族に軸足を置いて心豊かな生き方をしてみたいと考えるようになりました。とりあえず、定年まで8年を残して早期退職することを決意し、30年間の教員生活に終止符を打ちました。
ところが、何の当てもなく退職したものですから、これからどう生活していけばよいのか、しばらく思案する日々が続きました。ある日不意に、若い頃、美味しい蕎麦を求めて食べ歩き、どうして入善には蕎麦屋がないのだろうと呟いていたことを思い出します。早速、蕎麦屋になるためにはどうすればよいかを片っ端から調べ、横浜市にある「一茶庵手打ちそば教室」プロコースの門を叩くことを決めました。横浜に行く前には、自宅兼店舗になる物件を探し回り、自宅からそう離れていないところで、蕎麦屋にぴったりの今の住まいに出会い、一目惚れしてしまいます。
開業までの約1年間は、ひたすら蕎麦打ちの練習に専念します。特に開業前の8ヶ月間は、毎日1kgの蕎麦を打つことを自らに課して、家族に無理やり蕎麦を食べさせては残りを廃棄するという毎日が続きました。
2016年春、同じく教員を早期退職したばかりの妻を巻き込み、二人三脚で「手打ち蕎麦 あかり」を切り盛りすることとなりました。