蕎麦の手繰り方

十割蕎麦の命は儚く、香り、風味、食感、美味しくいただけるのは、ほんの僅かの時間です。蕎麦が目の前に出された瞬間から、このことを一番に留意して、蕎麦と向き合うことをお勧めいたします。
ここでは、蕎麦を美味しくいただくために、蕎麦の手繰り方の一例をご紹介させていただきます。
まずは、麺を何本か、何もつけずにそのまま啜って、蕎麦そのものの味と香りを確かめます。また、お手元に岩塩の入ったミルをご用意してありますので、麺の一部に極少量ふりかけて召し上がっていただくと、蕎麦の香りとともに、甘みをより感じることができます。さらには、水蕎麦といって、蕎麦を水にくぐらせて啜り、蕎麦そのものの風味と香りをダイレクトに感じる面白い手繰り方もあります。
さて、次に蕎麦汁を使って手繰ります。まず、徳利の蕎麦汁を少量、蕎麦猪口の底が見える程度に注ぎます。麺を箸で軽くほぐしながら、数本だけつまみます。麺全体ではなく端の方にだけ蕎麦汁を付け、空気とともに勢いよく啜ります。この時、ずずっと音を立ててしまうことになりますが、空気とともに麺を啜ることによって、仄かな蕎麦の香りを鼻腔で感じることができます。ワインやコーヒーをテイスティングするときに、空気を含ませながら味見をするのと似ています。ただし、大量の麺を口に運んでしまうと、勢いよく啜れずに、途中で噛み切ったり、もぐもぐと何度も噛んだりして食べることになってしまいます。また、麺をどっぷり汁に付けてしまうと、繊細な蕎麦の風味や香りは、醤油の力に負けてしまいます。
蕎麦汁が足りなくなったら、その都度、徳利から蕎麦猪口に少量を注ぎ足すようにすると、汁の濃度が常に一定となって、蕎麦を毎回美味しくいただけます。蕎麦汁の入った徳利に空の蕎麦猪口を添えてご提供させていただいておりますのは、こうした手繰り方を想定してのことです。
薬味皿には、ねぎを薄く小口切りにしたものと辛味大根をおろしたものが載せてあります。弊店では、蕎麦に山葵は付き物という固定観念や地域性を考慮し、おろし山葵を添えている時期もありましたが、山葵の辛味が、蕎麦の繊細な風味や香りを完全に打ち消してしまうほど強烈であることから、思い切って取り止めといたしました。
ちなみに、江戸の街では、蕎麦の薬味として長らく大根おろしが用いられていましたが、ある時、その代用品として伊豆から山葵がもたらされたということです。
薬味は最初から使用するのではなく、味に変化をもたらすために、途中からお好みの量を加減しながら加えるようにします。辛味大根は、蕎麦の風味や香りの邪魔をしませんので、汁に溶かし込んでいただいても結構です。ねぎは蕎麦を手繰る際に使っていただくもよし、蕎麦湯を飲むときのために取っておくのもよろしいかと思います。
最後の締めは、蕎麦湯です。まずは、そのものの味と香りを楽しんでみてください。次に、このときのために徳利に残しておいた蕎麦汁を、お好みの濃さになるよう少しずつ足して、出汁や醤油の香りとともに楽しんでみてください。
さて、長々と講釈してまいりましたが、結局のところ、どうぞご自由に、お好みの手繰り方でお楽しみください。決まりはございませんので...
蕎麦と薬味の相性

冷たい蕎麦の薬味には、ねぎと山葵が定番なように思われていますが、実は、山葵の香りや辛味は殊の外強烈で、蕎麦の微かな風味をかき消してしまいます。また、山葵を汁に溶かし込んでしまうと、汁本来の味を大きく変えてしまいます。そこで、蕎麦好きの中には、敢えて山葵を薬味として使わない人もいます。 蕎麦の薬味には辛味大根が絶妙です。確かに辛味大根にも強い辛味がありますが、蕎麦の風味を損なうことなく、蕎麦を引き立ててくれます。 辛味大根が広く栽培されている蕎麦どころでは、おろしにしてかけたり、絞り汁をつけ汁にしたりして、蕎麦が食べられています。 当店でも、信州産の辛味大根を用意しておりますので、蕎麦との相性をお試しください。
石臼挽き蕎麦粉の特長

蕎麦の製粉の仕方には大きく2つの方法があります。
一つは、機械挽き(ロール挽き)といって、細かく溝を切った2つのローラーを高速回転させ、その間に蕎麦の実を通して粉砕するやり方です。
もう一つは、弊店でも採用している石臼挽きです。昔ながらの方法で、目立てを施した石臼をゆっくりと回転させ、石臼の中に蕎麦の実を落とし込んで、じっくりと擦りつぶすやり方です。
前者の方法では、短時間で大量に粉を生産できるという利点があるのですが、ローラーの高速回転によって生じる熱が蕎麦の風味を奪ってしまうという欠点があります。
後者の方法では、石臼を低速で回転させることによって摩擦熱を抑え、蕎麦本来の風味を損なわない粉ができあがります。特に、目立てのよい石臼で挽いた粉は、細かい粒から粗い粒までを程よく含み、十割でもつながりやすく食感のよい蕎麦を打つことができます。
蕎麦の文化
今日のように人々が広く手打ち蕎麦を楽しめるようになったのは、江戸の蕎麦文化の影響が大きいと言えます。蕎麦を四角く延すのは、狭いスペースで無駄なく相当量の蕎麦切りを作り出すために、江戸の職人が考案したものですし、鰹出汁と醤油の食文化も江戸で花開いたものです。
落語の登場人物が、蕎麦の端をちょいと汁につけ、ズズッとすするシーンがありますが、これは江戸流の典型的な蕎麦の食べ方で、主役である蕎麦の風味を犠牲にしない、粋な食べ方だと言えるでしょう。とは言っても、蕎麦を食べる際には、塩をまぶしてみたり、味噌を溶いた大根の絞り汁や胡麻や胡桃だれの汁につけてみたり、はたまた、酒や水につけてみたりと、食べ方には多くのバリエーションがあります。自分が一番美味しいと思える食べ方を見つけるのも、蕎麦の楽しみ方の一つです。
蕎麦はとてもシンプルな食べ物ですが、原材料の良し悪しはもちろん、粉の挽き方、打ち方や茹で方、水回しの際の水加減一つで、味や香り、食感が大きく変わってしまう奥深い食べ物でもあります。
決して蕎麦どころとは言えない、ここ入善の地で、多くの人たちが蕎麦を楽しみ、蕎麦を語り、この地域なりの蕎麦文化が育まれ根付いたならば、どんなにか素晴らしいことでしょう。
